院長ブログ(No.182 主人公はその人自身)|大阪のがん免疫療法(免疫細胞治療)緑地公園駅 内科 北大阪メディカルクリニック

院長ブログ

No.182 主人公はその人自身

2023年01月14日

このような仕事をしていると、多くの方の最期を見送ってきました。何回も同じようなことを書きますが、「人は必ず死ぬ」という、当然のことがはっきりとわかります。「永遠の命など無い」という自明のことを、はっきりと心と頭と身体に刻んでいきます。

医師になってたしか最初の一か月ほどで7人のかたをお見送りしたでしょうか。まだまだ先輩の後を追い掛けて走るだけの研修医ですから私が主治医ではありませんが、「すごい世界にきた」と思いました。それから30年以上経ち、悪性疾患を主に診る科にいましたから、お見送りしたかたは相当数にのぼります。

以前、「先生たちは、人の死に慣れているでしょう」というようなことを患者さん家族に言われたことがあります。自分の家族が亡くなるような強い思い入れを患者さんにもってこの仕事をしていれば、とても精神的に続きませんから、「慣れる」わけではありませんが、ある程度は冷静に距離を置くことができるようになります。「人は必ず死ぬ」ということをきちんと理解します。医療の限界もわかります。「これ以上は手を出さないほうが良い」という医療の引き際も良くわかるようになります。

いつのころのデータだったが、「自分が癌になった時、最後まで治療を受けるか」という質問に、患者さんは80%、医師は20%と、全く逆の数字が出されました。つまり、医師は医療の限界、治療の引き際を知っているということだと思います。

そして、人が亡くなるとき「主人公はその患者さん自身である」という思いが、年月を重ねるごとに強くなってきました。主人公は命を終える患者さん、家族は脇役。医療従事者はある意味付け足し。つまり、死期が間近に迫っているとき、呼吸が止まりそうになとき、血圧が下がってきたとき、ご家族に部屋の外で待っていてもらって、医療者が点滴だ、心臓マッサージだ、挿管だ、と患者さんに侵襲を加えることは良くないのではないか、と思うようになりました。

勿論、事故だったり、梗塞だったり、喘息の重積発作だったりと、「今を助ければ元気」になるのであれば、一時的な侵襲がいかにあろうとも、積極的な治療をするべきです。しかし、何か月、何年と治療を受けてきた、幾多の辛い検査も受けてきた。または寿命を生きてきて穏やかに天への道を上り始めようとしているかたに、無意味な(敢えて「無意味」と書きますが)、延命治療は本人の望むところではないと思います。それは「治療」ではありません。

病院で最期を迎える時、その同じ空間に医師や看護師がいたほうがいいのでしょうか。「死」を受けいれているご本人、ご家族であれば、家族だけにしておいて欲しい、と思うのではないでしょうか。余計な他人である医療従事者なんていない方がいいでしょう。

呼吸回数が段々少なくなってきた際に「お父さん、さあ、もう一回息を吸って!」「お姉ちゃん、頑張って!」と言われるご家族の気持ちがわからないでもありません。「しっかりとしたお別れ」なんてなかなかできないかもしれません。しかし、「立派だった」「ありがとう」「よく家族の為に頑張ってくれた」「ゆっくりと休んでね」といわれる家族のかたもおられます。

いろんな事には、準備・練習が必要です。料理でも、競技会でも、受験でも、いきなりの本番で良い結果が出るわけはありません。「死」の準備なんて嫌だと思うかもしれませんが、必ず起こることに対して目を背けていれば納得した結果が得られないのは当然でしょう。自分が、家族が終末期を迎えたとき、肋骨が折れるような心臓マッサージが必要なのか、胃瘻が必要なのか、点滴が必要なのか。

「生きていて欲しい」という家族の気持ちはわかりますが、患者さんにとってどうすることが良いのかを考えておくことは納得した最期を迎えるためには大切です。主人公はあくまでも本人です。

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