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院長ブログ

No.184 諦めるということ

2023年01月31日

「認知症」の本を読んでいたところ、「諦めるとはどうなってもいいと投げやりになることではなく、認知症も自然現象としてありのままを受け入れることだ」とありました。確かに、以前できていたことができなくなるのをみるのは、「どうして!」「だから!」と思うし、「さっきも聞いた!」「何回も言ってるのに!」となるのは、お世話をする人の立場から見れば、十分に理解できる反応だと思います。しかし、される側からすると「どうしてって言われてもわからない」「だから・・・って何がだから?」「何回も言ってるつもりないし、今初めてだし・・・」「何回も言ったって言われても・・・聞いてないもん」となるでしょう。「早く食べてっていわれても、なかなかごっくんできないし」。

人は立場が違えば考え方、受け取り方は違うでしょうし、色々な能力に低下してくると上記の様な遣り取りがあるでしょう。今こうして書いている私も、書きながら「そうだよね~」と思っています。

赤ちゃんがおむつにおしっこをしても、腹は立ちません。幼児がトイレに間に合わなくてお粗相をしても、仕方ないなあと思っても腹はたちません。それは自分でトイレに行けるようになるための練習であり、いつか自分でできるようになるという未来があるから。
しかし、高齢者が取り替えたばかりのおむつにまたすぐ便をしたり、おむつの中に手を入れて便のついた手を布団になすりつけたりすると、さすがに「いいよ、いいよ」とは思えません。そこまで人間的にできている人はかなり少ないのではないでしょうか。
何故なら、それは段々できるようになっていくための練習ではなく、段々できなくなって行く階段を降りていくお手伝いだから。いくら頑張ってお世話をしても、良くなるわけではないところにある意味つらさがあります。ですから、「諦めて」=「受け入れて」お世話をする、と言われても素直に心には届いてきません。

しかし「諦める」の語源は「明らむ=明らかにする」。 仏教では、「物事の理(ことわり)をはっきりした上で、その理に合わないことを捨てる」という意味があるそうです。

認知症の介護の場合、「理に合わないこと」とは何か、と考えると「良くしようと思うこと」。つまり「今日より明日が良くなるようにしようと思わないこと」。突拍子もないことを言ってもそのまま受け入れる、今と昔が混同しても受け入れる、できない事をできると言っても受け入れる。ただ、この「受け入れる」と言うことはとても難しい。そのうえ何年続くか先が見えないことも気持ちが萎えてしまう理由の一つになります。

普段「諦める」というと、くじけて努力を止めること、という良くない意味で使われることが多いですが、「諦観」という言葉は「全体を見通して、事の本質・真理・道理を見きわめること」であり、決してマイナスの意味ではありません。物事の道理を見極めることによって、願いが達成されない理由が明らかになり、納得して、断念する、というのが、本来の「諦める」であると。

若かりし頃は「諦めたらだめ、できるまで頑張る」などと思っていたし、諦めずにそれなりに頑張ったように思います。
しかし、“ラインホルト・ニーバーの祈り” にあるように「変えるべきことを変えていく勇気を、変えられないことを静かに受容する慎みを、そしてこの二つを見分ける知恵を」持つことができればと今、改めて思います。

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